ビルタピアストーリー(知るタピア)
ビルは8才の時から働き始めました。父親が家を出て行ってしまったため、ビルは3人の兄弟と母親の為に働かなければいけなくなったのです。3つの仕事を掛け持ちし、寝る時間もなかったそうです。そんなビル少年が10歳の時に転機が訪れます。
ウクレレの腕を認められ、U.S.Oという軍隊を慰問する舞台でウクレレを弾いたのです。初めてお金をもらいました。それがビルのプロミュージシャンとしてのスタートでした。第一次世界大戦中のことです。その後、ビルはボードヴィル・ショーで活躍し、ハワイ中のシア
ターで演奏することになります。あちこちの劇場を掛け持ちで回り、忙しい日々でしたが、ビルはすっかり人気者となり、ホノルルアドバタイザーやハワイ報知など各新聞にはビルの演奏スケジュールが載るようになり、島でビルを知らない人はいないくらいになりました。自分で買ったウクレレは最初のヌネスだけ、というくらいあらゆるところで色んな人からウクレレをもらったといいます。
その頃、アレキサンダーとヤングの交差点にあったタクシースタンドで、昼間に時間を持て余したドライバーたちと演奏するのがビルの楽しみでもありましたが、そこで、タクシーに乗って来た一人の男がビルの演奏を聴いて声をかけます。何しろウクレレでメロディを弾くなどということは考えられなかった時にウクレレでジャズのメロディを弾いていたわけですから(おそらくビルがウクレレでジャズを演奏した世界で初めての男だったに違いありません)その男もびっくりしたのでしょう。
「どこでそんな演奏を覚えたんだ?」と聞くので、ビルは「自分で考え出したんだよ」と答えました。その時に「君がバンジョー弾きだったらウチのバンドに雇うんだがな」というその男の言葉を聞いて、ヴォードビルの仕事に疲れ、新しい仕事が欲しかったビルは、思わず「僕はバンジョーも弾けますからぜひ雇って下さい!」とウソをついてしまいました。
それからがたいへんでした。ビルはあちこちの質屋さんを回ってやっと16ドルでバンジョーを手に入れると、ウクレレチューニングで(もちろん、そのあとでちゃんとテナーバンジョーの奏法をマスターしたのですが)バンジョーの練習を始めました。三日後のオーディションでバンジョーを自由に弾きこなしたビルは一発で合格し、楽団の一員としてバンジョーを演奏することになりました。タクシースタンドで声をかけた男の名はジョニー・ノーブル。ピアニストで当時ハワイ一番の高級ホテル、モアナホテルで演奏するオーケストラのリーダーでした。その時、ビル・タピアはまだ16才でした。
ひと際目立つピンクの建物で、ワイキキの象徴とも言われるロイヤルハワイアンホテルは今でも由緒と格式のあるホテルとして知られていますが、名誉なことに、その1927年のオープニングセレモニーでジョニー・ノーブルのバンドの一員としてビルは演奏しました。これもまた後のビルの人生にとって大きな意味を持ってくるのです。
